
昨年の授業でも、高校生たちにお話ししたことなのですが、「運がよくなる方法」ってみんな興味があるみたいですね。
で、今年も恒例のように話してあげました。
「皆さんの中で『自分は運が良い』と思っている人、手を挙げてみて」
「そっか。」
「じゃあ、逆に『運が悪いなぁ』って思っている人は?」
いつもパラパラとどちらにも何名かずつ手が挙がります。もちろん、こちらの質問の意味を判別できずに裏の意味があるのかと勘ぐって手を挙げられない人も。(笑)
これ、いろいろな本を読んでみた自分の中での結論めいたものなのですが、私自身は『運がよくなる方法』を知ってしまったので、なるべく若い時に教えてあげたくて(笑)、どうしても高校生にお話ししちゃうんですよね。
しかも、これをこれから一年間の授業をさせていただく生徒には早い段階で教えてあげておくと、私自身も授業がやりやすくなるので。
では、結論から。
物事、事象や出来事の起きる確率は、自然発生的なものには『人』による差が無いというのが結論なのです。
でも、運が良いという人と運が悪いという人が存在します。
事象の起きる確率に差が無くても、人によって「運が良い」「運が悪い」は存在しちゃうんです。
どうしてでしょうか。
それは、その人の捉え方だからです。
起きた事象を「運が良い」とか「運が悪い」とか評価するのが人なのです。
で、ここから。
じゃあ、運が良いとか悪いとかっていうのは、何も関係ないよねって話しじゃないんですよ。
自分のことを「運が良い」って思っている人って、本当に些細なことでも「あぁ、運が良かった」って感謝する気持ちを持っているんですよね。
生徒に話すときには、駅から学校までの間の信号の話しをします。
信号が「赤」になって横断歩道を渡ることができなかった時、運が良い人は
「あぁ、急いで渡ろうとして車にひかれなかった」とか「急いで渡らずに疲れなくて済んだ」「赤信号のお陰で立ち止まって友だちとおしゃべりができた」など、プラス発想をすることができます。
でも、運が悪い人って
「あぁ、せっかく青で少しでも早く学校に行きたかったのに」とか「急げば渡れたのに途中でもう少し早く歩くんだった」などのマイナス発想をしてしまうのです。
で、例えばクラスの仲間や担任の先生に対しても、
運が良い人:好い仲間に恵まれた。良い先生に恵まれた
運が悪い人:仲間に恵まれなかった。先生に恵まれなかった
と、差が出てしまいます。
当然、心の中でのそんな「思い」の違いは、表情にも出てしまいます。
要するに、運が悪い人って「他責思考」なんですよ。
だから、生徒には
「皆さんは自分のことを『運が良い人』と信じるようにしてみてください。自然と運がよくなりますから」
と伝えます。
最後に、その授業の締めくくりは
「私は、皆さんと学ぶ一年間、とても幸運に思っています。お互いに良い授業になるように、協力し合っていきましょう。私は皆さんと巡り会った幸運に感謝しています」
と結ぶのです。(笑)
毎年恒例の「運がよくなる方法」の授業、いかがでしたか?